昭和39年11月14日 夜の御理解
今日先程秋永先生から電話が掛かって来た。夕方ちょっと用事が出来ましたから、明日の朝、添田さん方もみんな今、お参りして来とりますから、秋永先生も明日の御祈念に出て来るように電話を掛けておりました。丁度、先生、留守立ったらしんです。そしてそうして電話が掛かってまいりましてから、あの明日の朝じゃなくて今夜出て行ってもいいのですかって、と電話でした。
それはもういいんですけども、明日皆んな集まってからの方が話し合うのにいいのじゃな いですかって言ったら、明日は明日出てきますから、今からすぐ出てきますという電話でした。私は、なんかそういう時にですね、そのもう何か、私と秋永先生の間に一つの交流しておるなという息がピタッと合ったものを感じますですね。私はこれは、私共と神様の場合だって、そういう息が合わなければダメ。
いくら熱心に参っていても拝んどってもねピタットするもの、神様とピタットとこう合うものがなかったら駄目です。所謂意気投合と言う事を申しますでしょう。ですから私今日もでした私が明日教学研究会でここん所を、明日教学したいと思うと言うて例のあの教祖の神様の生麦を御神命のままに、俵にお詰めにある所が御座いますね。
また隣の久蔵さんがそれを真似して入れ、真似をされたところが、久蔵さんのはおびただしいその虫が付いたと。教祖の神様のは付いていなかった。ここまで私共その話知っているんですけども、それから先の事がその御書物に書いてあった。そこを私一読させて頂いたんですけども、その久蔵さんの親戚の人たちは大変お前馬鹿じゃからと言うふうに言われなさったらしいですね。
ところが実際はそのおびただしい虫は付いているけどもです、付いておるけども麦大変そう痛んでなかったという事ですね。だからその事を御礼申し上げて下れいと言うて、その教祖様の所に見えて来ておる所がございます。そこんとこ私今日初めて見たんです。ですからこの辺の所がまあ、教学の対象になるんだと。実にその微妙だという訳なんですね。教祖の神様のにはお開けになった所、一匹の虫も付いていなかった。
もう特に柔らかい稲から、こう俵、開けられたらしんですけど虫一匹付いていなかった。久蔵さんのには、おびただしいその虫が付いておったと。けれどもその虫がついておる程の割合にです、麦も減ってもいなかったし、痛んでもいなかったという事。教祖の神様は、その事を神様にお届けされますと、『形の真似は出けても、心の真似は出けんから』と、こう仰ったですけどもです。
兎に角、教祖の神様がなさる事なら間違いないと、こういうこのそういう心意気なんです。隣の久蔵さんも信心なさる訳です。そういう心意気全然信心のない者とは違う。もうそこにその差がこう次々出てくる訳なんですね。だから同じ事しとっても十人が十人、そのだから私その事を申したんですけども、結局意気の加減だなと私申しました。ね、生き生きとした、その意気の合う加減が虫が出けたり出けなかったり、いや出けてもそのさほどに痛んでいなかったり、また痛んだりと言う事になって来るだろうと。
熊本の吉田先生なんか、例えば私の癖までその真似してからそのなさると。形だけのいわば真似だけど、それは一つの心意気が違う。ただ真似だけじゃない、ね、いわゆるその椛目の先生に対する所のひとつの憧念心。少しでもおかげ受けておる、少しでも先輩であると思う、その先輩に対する所の、何か知らんけどもこの憧れと言った様なものがです、そう真似をしなければおれないような意気になっておる。
そこに先生が言われるようなおかげを受けておられるわけなんですね。そんな真似形の真似だけでもあのさして頂くようになってからこの方、第一御参りも御供えも変わって来たと言われるんですから。ね、心の真似は出けんけどもその意気、意気に感ずるといったようなその意気が違う訳なんです。先程親先生あの高橋さんが来よったろうがな。高橋さんが今日久し振りにやってきたんです。
したら先生が何かこう生き生き弾んだような「いや、しばらく」とかなんとか言って、話をしてるんです。もうあんな声なんか滅多に聞かない。私はそう思って聞いたんだけど。結局あんたと高橋さんの意気が合うとるから、ああいう生き生きした声が出るんだ。それは先生そうでしたね、と言うてから古賀先生に言っているんです。誰よりも彼よりもその何か知らんけど意気投合するものがある。
そこに、もう声色から変わって来る。ピタット来るものがあるのです。だから、その明日その意気の所をね、教学したいと、言う様な事でしたけどもですね。私共と神様の間の場合でも同じ事。同じ時間に同じいわば事でです夜の御祈念なら 御祈念に皆さんがお参りになるけれどもその心意気によって、私おかげが違うと思う。ね、ですからまあなんと申しますか、その私の事どうすればそんなら神様が私共の間に意気が合うだろうかと、こういう事です。ね、
この意気が合うという事は、そりゃもう何とも言えん事じゃありますもんね。あの藤山寛美という喜劇役者がおりましょ、師匠の天外さんですか。との間だったらもうあの台本無しでもう舞台に出たら、もう一幕位だったらです、もうどげな芝居でもやって退けられるち、言われる。題だけが分ったら、筋をだいたいもう聞いとりゃという位にです、あれがこう言うたら、こう言えれるものが何時もあるち言うわけ。
特にその藤山寛美さんのその間の良さというのは、もう後にも先にもこんな間のよいその役者またと出るまいち言うてその芸評家が言ってるですね。成程見とったら実にその間がいいです。間と言うのは台詞から台詞の間です。黙っとてもですもう一つも相手に飽かせないんです。その間がすばらしい、ね。これ例えばあぼまだ初代の光橋先生がおります時分にあの一晩中私と二人でお茶を呑んどったら。
別にあの人おしゃべりしませんでしょ。ですから私一時おしゃべりするけども、もう話の種が無くなる訳です。それでもやっぱりこうお茶でもすすとりゃ、なあんも言わんけども何かこう飽きも飽かれもせんような、何時間でもそのその間が保てれるんですね。手持ちぶたさと言った様なものも、お互い感じ合わないんです。あれ間があってるその間が神様と私共の場合だって同じ事。
例え椛目に上がらなくても、例え御神前にいなくてもです、別にお願いしとらなくても、その間が素晴らしいと言う所までね、お互いの信心が神様とのあいだに、その息が合わなければならないなと言う事です。それで兎に角どう言う様な在り方にならして頂いたら、その、神様と私共とのあいだに息が合うだろうかと。やっぱり接近するほかないですね。それもその、接近するだけでなくてね。
もう神様の前には赤裸々でなからなければいけない、と言うことですね。お取次を願う、例えばお取次を頂く。その頂いて神様とあなた方のこの間。息がかよいあう様になるのはですね、もうどのような事でもお届けのでけれるおかげを頂かなければいけないと言う事です。十年例えば御参りさせて頂いておってもです。この事だけにはまだ、先生には申し上げられない。
この事だけはお取次頂いてない、心の中では神様に拝みよると言った様なものがあればある程、間は合わないです。そういや秋永先生なんか、もうほんにそげなこつまで言うてお届けせんでん、て言うごたる事 までいたしますもんね。そこに私はこう間が合うて来るようになったんじゃないかとこう思いますね。ね、だから相手の事喉から底からから分かって来るようになる。
神様の前に、もっともっと私共が、赤裸々にならなければいけんのじゃなかろうか。同時に接近する機会を作らなければならん。そこに例えば、私となら秋永先生の間にです、間が良いだけではなくて、そのなんとはなしに、息がこう合うとこう言うこと。ね、そこに、私はあの神様と交流する度合いと言うものが、何か知らんけども交流しておるならば間があってもです、いつも身近に神様を感ずる事が出けると言う様な気が致しますね。 おかげ頂きました。